山本爲三郎(やまもとためさぶろう)とは
山本爲三郎はアサヒビールの初代会長で、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史を語る上で外せない重要人物の一人。経営難にあえぐニッカウヰスキーを自社に吸収合併しつつ、竹鶴政孝を信頼し、ニッカウヰスキーの品質本位の酒造りを支援しつづけた。
山本爲三郎の来歴
山本爲三郎は1893年、大阪の生まれ。
父親の早逝をうけ、17歳の時に家業の製瓶業(山爲硝子)を受け継ぎ、早くから実業界に入りました。のちに大日本麦酒株式会社の専務を経て、朝日麦酒(現:アサヒビール)の会長となり事業を拡大、同社を日本を代表するメーカーの一つに育て上げました。
熱心に事業を拡大するかたわら、文化人としても知られており、柳宗理を代表とした工芸をひとつの芸術に押し上げた「民藝運動」や、活発な著作活動を行っていました。
山本爲三郎のコレクションは一般開放されており、山崎蒸溜所のすぐとなり、大山崎山荘美術館にて誰でも閲覧することが可能です。
ジャパニーズウイスキーとの関わり
山本爲三郎は1919年の竹鶴政孝のスコットランド渡航の際にも見送りに来たと言われています(竹鶴政孝の自伝より)から、 明治期の大阪の酒に関する産業で活躍した実業家として広く知られた人物であったと想像されます。
鳥井信治郎がブレンドした赤玉ポートワインを、摂津酒造に勤務していた竹鶴政孝が瓶詰めしていたことはよく知られていますが、その瓶の中には山本爲三郎が製造した瓶もあったことでしょう。
ニッカウヰスキーの買収
時は流れ、竹鶴政孝が大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を立ち上げて20年後の1954年。ニッカウヰスキーの筆頭株主であった加賀正太郎がガンのため病床に伏していました。
自身の死によりニッカウヰスキーの株が散逸することを懸念した加賀正太郎は、同じく株主であった芝川又四郎と相談して、二人が保有している株60%を山本爲三郎、つまり朝日麦酒に売却します。同時に、山本爲三郎は、ニッカウヰスキーの筆頭株主になりました。
ニッカウヰスキーの社内は突然の筆頭株主の変更に騒然としますが、以前から知人同士であった山本爲三郎(ヤマタメさんと呼称していたらしい)が株を引き受けることを知り、竹鶴政孝は泰然としていたと言われています。
竹鶴政孝は、自伝のなかでこの時のことを以下のとおり述懐しています。
このとき、私は淡々とした気持でそれを聞いた。これで、私も銀行に頭を下げる必要もなくなり、ウイスキーづくり一筋に専念できる。また、山本さんなら私を、昔から理解してくれている人だから、ニッカのために悪いようにはなさらぬはずーーーと私は胸をなでおろしたのだった。
『ヒゲと勲章』より
事実、ニッカウヰスキーの品質本位の姿勢にいたく共感していた山本爲三郎は、経営のボトルネックは販売戦略の弱さにこそあると看破し、営業のプロフェッショナルである弥谷醇平を送り込んだ以外は、経営には一切口を出さなかったそうです。
そしてこの弥谷醇平こそ、ニッカウヰスキーの躍進を支えた人物。竹鶴政孝も非常に信頼していました。
1954年といえば、原酒混和率5%以下と定義される二級ウイスキーが市場を席巻していたころ。ニッカウヰスキーは、たとえ二級ウイスキーであっても、少しでも本格的な味わいにしようと、二級ウイスキーとして定義できる5%ギリギリまでモルト原酒をブレンドしていたために値が張っており、価格的に不利な状態でした。
「高いから売れない」
弥谷醇平にはそれがわかっていましたが、竹鶴政孝は、「良いものだから高いのは当然だ」といって値下げ案には首を立てに振ろうとしません。そこで弥谷醇平は、「社長は理系の人間だから、理論を詰めれば説得できる」と考え、営業戦略をひたすら練りこみました。
500ミリリットル350円で売っているものを、他社なみに640ミリリットル350円で売ると、1本当たり3割の欠損になる。しかし、これで1年もちこたえれば87パーセント伸び、欠損は黒字に転化する。どうしても一度は“デッドポイント”を通過しなければ積極的な市場がもちえない主張であった。
『私の履歴書』より
この戦略によって売り出されたのが「丸瓶ニッキー」。道内のみならず全国で売れに売れ、経営を改善させるのみならず、ニッカウイスキーは「北海道の地酒」から全国規模の一大酒造会社へと変貌を遂げるきっかけとなったのです。
ニッカウヰスキー社の、今に続く高品質なウイスキー製造があるのも、弥谷醇平という天才を送り込んだ山本爲三郎の才覚のおかげといっても過言ではないでしょう。
カフェスチルの導入
山本爲三郎がジャパニーズウイスキーに行った最大級の貢献の一つは、カフェスチルの導入が挙げられます。
山本爲三郎は洋酒は飲まないことで知られていますが、それでも興味じたいはあったとされ、洋酒の蒐集、研究には余念がなかったそうです。山本爲三郎は英国に旅行したことがあり、その際にカフェ式グレーンの見聞記を日記にしたためていました。その日記を持ち出し、竹鶴政孝にカフェグレーンの製造を打診したのです。
「カフェ式グレーン・スピリッツをやるには、莫大な資本がいる。しかし、今日の消費者の舌は進歩してきて、いいものはいいものとして鑑別できるようになった。余市でポットスチルは完成しているが、カフェ式グレーンをまぜないと本格的な香りは出ない。これをやらなければ、スコッチに負けてしまうよ。金はだすから・・・」
私は金には縁がうすいので、私は一生涯、私の手では完成できないものとあきらめていた。
それだけに山本さんのこの一言はほんとうにありがたい言葉であった。
『ヒゲと勲章』
こうした経緯でカフェスチルが導入され、今に続くブランド「ブラックニッカ」が生まれたのです。それまで、原酒といえばモルト原酒のことで、グレーン原酒は使われておらず、中性アルコールをベースにブレンドされていましたから、本格的なグレーン原酒と余市のモルト原酒をブレンドした「ブラックニッカ」がいかにエポックメイキングな銘柄であるかは想像に難くありません。
こうした経緯で導入されたカフェスチルは、西宮工場での稼働を経て、現在は宮城峡蒸溜所で大活躍しています。
財界の士として
実業家として活躍した山本爲三郎は、財界でも大いに活躍しました。竹鶴政孝との交流はもちろん、ギルビージンのギルビー氏、竹鶴政孝の後輩で首相に上り詰めた池田勇人。
竹鶴政孝は、この四人が一同に介した写真を大事にもっていました。晩年は、「最後の一人になってしまった」とこぼしていたそうです。
財界の士として最も英雄的なエピソードとして語るべきは、サントリー社のビール事業の逸話です。
大日本麦酒が札幌麦酒と朝日麦酒に分割され、日本の市場を席巻していたころ、新興のビール会社は見向きもされませんでした。そもそもビールには酒販店の専売制度があり、たとえ良いビールを作っても販路を開拓することができないのです。
サントリー社の舵取りを行っていた二代目の佐治敬三は、かねてより父親を通じた親交があり、人格者としても実業家としても尊敬されていた山本爲三郎を訪ね、自社のウイスキーをなんとか朝日麦酒の販路に載せてほしいと依頼します。
カルテル状態に陥っていた日本のビール業界を憂いていた山本爲三郎は、いち実業家としてではなく、日本のビール産業全体を見通す一財界人として、サントリーのビールは朝日麦酒の販売ルートに乗せることを決定します。
これが「純生」からプレミアムモルツにつながるサントリービールの躍進につながり、サッポロ、アサヒ、キリン、そしてサントリーの四社が群雄割拠する日本のビール市場が出来上がりました。
山本爲三郎についてのまとめ
山本爲三郎は、ニッカウヰスキーへの支援とカフェスチルの導入によってジャパニーズウイスキーに貢献しつづけた偉人と言えるでしょう。民藝運動やビール製造に関する話題もありますが、ここは「ウイスキーノート」ということで、別の機会にきればと思います。