余市蒸留所のウイスキー博物館にある、阿部喜兵衛と竹鶴政孝の肖像。

阿部喜兵衛(あべきへえ) – 竹鶴政孝の恩人

阿部喜兵衛(あべきへえ) とは

阿部喜兵衛(あべきへえ) とは、摂津酒造の社長です。竹鶴政孝をスコットランドに送り出し、ジャパニーズ・ウイスキー誕生のきっかけをつくりました。

1916年、竹鶴政孝青年が摂津酒造の門を叩いたとき、社長として出迎えたのは阿部喜兵衛でした。

摂津酒造の取水口の跡。ここから阿部喜兵衛の夢、岩井喜一郎の技、竹鶴政孝の情熱も生まれていた。
摂津酒造の取水口の跡。ここから阿部喜兵衛の夢、岩井喜一郎の技、竹鶴政孝の情熱も生まれていた。

「半年後に家業の酒蔵を継ぐまで、洋酒の勉強をしたい」という青年に、翌日からの勤務をみとめます。以後、主要取引先であった鳥井信治郎から青年の技師としての誠実な仕事ぶりを褒められるなどのきっかけがあって、青年への信頼を深めました。

現在、赤玉スイートワインとして販売されている赤玉ポートワイン。
現在、赤玉スイートワインとして販売されている赤玉ポートワイン。

阿部喜兵衛は、以前からあたためていた、「本格ウイスキーを日本で作る」という構想を竹鶴政孝青年に任せることに決めました。スコットランドへの技術留学です。一説には、自分の娘の婿として期待していたとも言われています。

竹鶴政孝青年が摂津酒造に入社してから二年後の1918年のことでした。

竹鶴政孝青年スコットランド派遣を決めた阿部喜兵衛は、精力的な行動を開始します。

当時、洋行は地の果てへの旅であり、もしかしたら今生の別れになるかもしれないものでした。日英同盟による親日の機運があったとはいえ、地球の裏側のスコットランドに、どんなものかもわからないスコッチウイスキーとやらを学びにいくというのです。

家業の酒蔵を継いでくれるはずと思っていた竹鶴政孝の両親は当然ながら大反対です。

そこで阿部喜兵衛は、わざわざ大阪から竹鶴政孝の実家のある広島の竹原まで、説得しにいきます。

「今回のスコットランド留学は、竹鶴政孝本人のためであり、また日本のためでもあり、是非にお許し願いたい」と頭を下げたと言われています。

阿部喜兵衛の真剣な説得により無事にスコットランド留学が認められた竹鶴政孝。紆余曲折がありながらも、なんとか技術を習得していました。

継続的に送られるレポートから、阿部喜兵衛は竹鶴政孝のスコットランド留学に手応えを感じる一方で、摂津酒造の経営状態に危機を感じていました。

竹鶴政孝を送り出したころは、不平等条約改正によって輸入アルコールの関税が上がり、結果として摂津酒造をはじめとする日本国内のアルコール製造会社は空前の活況を呈していました。

さらに、大戦景気もあって、燃料にもなるアルコール(ブタノールなど高級アルコール)の価格は高く、非常に景気が良かったのですが、一方で、第一次大戦が終わると同時に大戦景気が終わり、摂津酒造も一気に経営が悪化していたのです。

とても、ウイスキー製造を開始するどころの経営状況ではありませんでした。

そうとも知らず、竹鶴政孝はスコットランドで技術の習得を進めました。しかも、スコットランド人の嫁(リタ)を連れて帰ると言うのです。

普通なら、経営状況を伝えて、日本での本格ウイスキー製造は難しい、スコットランド人の女性を嫁にするのはやめて、早く戻ってきてくれ、というべきところかと思いますが、なんと阿部喜兵衛は竹鶴政孝リタとの結婚を許してくれるように竹鶴政孝の実家にむかい、両親に取り合ったのです。

結果、「阿部喜兵衛さんが認める女性なら」という言質をとりつけ、スコットランドに向かい、リタを見定めました。

「良いお嬢さんだね」ということで、竹鶴政孝リタの結婚を認め、帰国の船から姫松(現在の帝塚山)に住まいを借上げさせ、洋式トイレまで取り付けさせています。

竹鶴政孝とリタが住んでいたと推察されている帝塚山の敷地。
竹鶴政孝とリタが住んでいたと推察されている帝塚山の敷地。

阿部喜兵衛は、自分の夢であるスコッチ風の本格ウイスキー製造はすでに暗礁に乗り上げ、また自分の娘の婿として期待していた(かもしれない)竹鶴政孝が嫁を連れて帰るという、非常に辛い心境にありました。

そんななか、洋行の途中で結婚祝いの絵を買い、竹鶴夫妻にプレゼントまでしているのです。阿部喜兵衛から竹鶴政孝に対する無私の愛情は、痛々しいほどに純粋だったのかもしれません。

余市蒸溜所内にある、阿部喜兵衛から送られた絵の説明板。左側の壁に実物が飾られている。
余市蒸溜所内にある、阿部喜兵衛から送られた絵の説明板。左側の壁に実物が飾られている。

竹鶴夫妻とともに帰国した後、阿部喜兵衛は、竹鶴政孝から執拗に本格ウイスキー製造プロジェクト開始の督促をうけます。

経営会議で竹鶴政孝に味方して本格ウイスキー製造を推し進めようとするも、

  • 本格ウイスキーというものが本当に売れるのか
  • 貯蔵期間はどうするのか

といった問題に対して明快な解答はできず、結果として延長することになります。すでに社長である阿部喜兵衛の一存で会社を動かせる経営状況ではなくなっていたのです。

結局、この時をもって竹鶴政孝摂津酒造を退職。のちに余市で本格ウイスキーの原酒ができ、竹鶴政孝本人が送ってきましたが、摂津酒造としてはそれを受け取ることはせず、以後、ぷっつりと竹鶴政孝との縁は切れてしまいました。

阿部喜兵衛(あべきへえ) のウイスキー史における意義

ひとくちにいって、阿部喜兵衛なしにはジャパニーズ・ウイスキーの誕生は遅れていたか、今とは別の形になっていたことでしょう。阿部喜兵衛が竹鶴政孝をスコットランドに送ることで、鳥井信治郎による寿屋への竹鶴政孝の招聘、山崎蒸溜所の建設、そして余市蒸溜所の建設が行われました。

またここからは私個人の仮説ですが、竹鶴政孝が日本独自のウイスキーではなく「スコッチウイスキー」にこだわったのは、おそらく阿部喜兵衛の夢を継ぐという意志があったからではないかと思うのです。

阿部喜兵衛は竹鶴政孝の恩人であり、またジャパニーズ・ウイスキーの恩人でもあります。最後に、竹鶴政孝の自伝から引用して「阿部喜兵衛」の頁を終えたいと思います。

阿部社長は偉かったと思う。酒屋が一人の若者を遠くスコットランドまで留学に出したという度胸のよさ、またスコッチこそ日本のウイスキーの模範だとして、将来ウイスキーがさかんに飲まれる時代のために布石を打つべきだと考えた先見の明は、高く評価されてよかろう。

もしも私が、阿部社長の恩顧をうけず、イギリスでスコッチを研究することがなかったなら、「今日の日本のウイスキー界の様相も変わったものになっていたろう」と私はひそかに考えることがある。だから、もし私が日本のウイスキー界のために幾ばくかの微力を捧げてきたとほめてくれる人がいるなら、私以前に阿部社長という人がいて、私を育ててくれたこと、私を通して阿部さんが日本のウイスキー誕生に蔭で偉大な貢献をされたことを認めざるを得ないだろう。

ダイヤモンド社『ヒゲと勲章 ニッカウヰスキー社長 竹鶴政孝 「ウイスキー革命は俺がやる」 歴史をつくる人々』より

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