宮城峡蒸留所にある竹鶴とリタの等身大パネル。

リタ・竹鶴 – 【日本ウイスキーの母】

リタ・タケツル(リタ・竹鶴)とは

リタ・タケツルとは、スコットランドに生まれた女性でありながら日本人の竹鶴政孝に嫁入りし、名実ともに日本における本格ウイスキーの誕生を支えた、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史を語る上で外せない重要人物のひとりです。

リタ・タケツルの出生

宮城峡蒸溜所にある竹鶴とリタの等身大パネル。
宮城峡蒸溜所にある竹鶴とリタの等身大パネル。

リタ・タケツルの旧姓名はジェシー・ロベルタ・カウン。通称リタ。

リタは、グラスゴー近郊のイースト・ダンバートンシャーのカーカンテロフ(またはカーキンティロッホ)の地で生まれました。

父であるサミュエル・キャンベル・カウンは医師で、近所ではかなりの名家の生まれ。竹鶴の自伝によれば、「医は仁術」を体現する人であったらしい。(ただし、史実上では竹鶴政孝はサミュエル・カウンとの面識はない)

一方で、人が良すぎるために、死後も回収できない医療費が膨大にあり、残されたカウン家は大変な経済的苦境に陥ったことは事実。実際、役所に家を売っている。(『マッサンとリタ』オリーブチェックランド著より)

リタはそんなサミュエルの長女であり、リタより下に妹二人、末の弟が居ました。具体名は

  • エラ・カウン(グラスゴー大学で竹鶴政孝との面識を得た)
  • ルーシー・カウン(竹鶴政孝との結婚を応援した)
  • ラムゼイ・カウン(竹鶴政孝に柔道の教授を依頼した)

の通りです。

リタは病弱の生まれで、小さいころより喘息、偏頭痛に悩まされていたそうです。どちらかと言えば引きこもりがちな少女で、小さい頃より、読書とピアノに明け暮れたと言われています。

フィアンセの喪失と竹鶴との結婚

リタの外国人居住登録証。登録がキャンベルタウンになっているのは謎。結婚後、戸籍はキャンベルタウンになった?
リタの外国人居住登録証。登録がキャンベルタウン。

グラスゴー大学に通うようになって、体調は比較的改善し、近所の名家の子であるジョン・マッケンジーと婚約。ただし、第一次世界大戦の中東での戦闘でフィアンセを亡くします。

さらに、1918年には、頼りの父も亡くします。

同じ年、日本からはるばるウイスキーを学びにスコットランドに来た竹鶴政孝が、エラを通じてカウン家を訪れます。ある程度の期間、カウン家を下宿としていたそうですが、正確な時期は判然としません。

当時、竹鶴政孝は、王立工科大学に籍をおきながら、グラスゴー大学の図書館でも勉強していました。カウン家と竹鶴政孝の縁を繋いだのは、同じくグラスゴー大学に通っていたエラ(リタの妹)でした。そして、竹鶴政孝がカウン家を訪問する直接的な理由は、末っ子のラムゼイが柔道を学びたい、ということでした。

カーカンテロフにあったリタの実家を模したエリア。
カーカンテロフにあったリタの実家を模したエリア。

何度かの訪問でお互いを意識しはじめた竹鶴政孝とリタ(もっとも、竹鶴政孝は一目惚れだったようですが)。のちにワイン醸造の現場を知るべくフランスを訪れた竹鶴政孝は、フランスの香水をリタにプレゼントしたと言われています。(『望郷』という小説では、「ミツコ」をプレゼントしたことになっていますが、具体的な銘柄はわかっていません。)

竹鶴政孝が渡英して2年目のクリスマス、1919年のクリスマス。このとき、クリスマスプディングの占いで運命的な結論が出る。良いお嫁さんになると言われる「指ぬき」がリタに、そして男性に出たらお金持ちになると言われた「銀貨」が竹鶴政孝当たります。これは二人を意識させるため、リタの妹のルーシーが仕込んだイタズラであったかもしれません。

余市蒸溜所内に展示されている指ぬきとコイン。
余市蒸溜所内に展示されている指ぬきとコイン。

スペイサイド地区エルギンのロングモーン蒸溜所でポットスチルによるモルト原酒の蒸溜を学び、またグラスゴー近郊のボネース工場でカフェ式蒸溜器によるグレーン原酒の蒸溜を学んだ竹鶴政孝は、ブレンドの技術を学ぶため、マッキー社の工場があったキンタイア半島のキャンベルタウンに向かいます。

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三回蒸溜を示す3つのポットスチル。竹鶴政孝が修行した蒸溜所の名を冠したボトル。

リタは、その研修についていく形で、キャンベルタウンにて略式の結婚式を上げました。祝福に来たのは、妹ルーシーをはじめとした、ごく少ない面々であったそうです。

竹鶴政孝がリタとの婚約のことを日本に手紙で送ると、家族からは猛反対の手紙。見合い相手の写真まで同封されていたそうです。

竹鶴政孝の実家に、リタとの結婚を思いとどまらせる依頼を受けた、摂津酒造阿部喜兵衛が渡英します。ところが、リタと対面した阿部喜兵衛はすぐにこの新妻を気に入り、竹鶴の両親に「心配ない」と連絡したそうです。

結婚に際して波乱は多くありましたが、帰国の前には、阿部喜兵衛とグラスゴーのウィルソン教授が新しい夫婦の誕生を祝い、また反対されたカウン家の母親とも和解できたそうです。

帝塚山での生活

桃山学院大学に併設されたチャペル「聖アンドレ」。竹鶴とリタもここで祈りを捧げていたことだろう。
桃山学院大学に併設されたチャペル「聖アンドレ」。竹鶴とリタもここで祈りを捧げていたことだろう。

1920年、リタは竹鶴政孝とともに日本の地を踏みます。西洋風のホテルでの祝賀を経て、阿部喜兵衛が手配してくれた帝塚山の豪邸での生活が始まりました。阿部喜兵衛はリタに気を利かせて、洋式トイレを特注していたそうです。(こうした阿部喜兵衛の心遣いは、全く驚くべきものだと思います)

竹鶴政孝とリタが住んでいたと推察されている帝塚山の敷地。
竹鶴政孝とリタが住んでいたと推察されている帝塚山の敷地。

日本でのウイスキー製造を夢見ていた竹鶴政孝は、帰国して二年後、複雑な思いで摂津酒造を辞職します。当時、竹鶴政孝は破格の高給をもらっていましたが、摂津酒造の経営悪化により、ウイスキー製造どころではなく、イミテーションの洋酒を作り続ける仕事ばかりしていたことが、竹鶴の心を病ませたようです。

竹鶴政孝摂津酒造を辞したのち、リタは家計を支えるべく、中学の先生として、個人のピアノ講師として、英語講師として、大いに活躍しました。竹鶴政孝が桃山中学で科学教師としての職を得られたのも、リタが築きあげていたローリングス婦人との信頼関係に依存するものでした。

ここで注目すべきは、ニッカウヰスキーの後の出資者となる芝川や加賀は、リタが家庭教師として世話していた家庭の親であるという点です。サントリー社を辞し、新たに最北の地でジュース会社、もといウイスキー会社を立ち上げるという無謀な挑戦に多大な資金を提供した二人は、リタが築いた信頼によって竹鶴政孝を支援することになったのです。

つまり、帝塚山時代のリタの家庭教師としての活躍がなければ、ニッカウヰスキーも誕生していなかったかもしれないのです。リタをしてジャパニーズウイスキーの母という所以はここにあります。

しかし、この英語教師としての仕事がたたったのか、リタは身ごもった子を流産し、二度と子を産めない体になってしまいました。

山崎工場での生活と最後の帰省

竹鶴政孝が化学教師として一年間つとめ上げたところで、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎が帝塚山の竹鶴家を尋ね、本格ウイスキー製造を打診、竹鶴は快諾しました。

山崎蒸溜所を設計、建設、運営するため、竹鶴家は居を山崎に構えます。当然、リタは帝塚山を離れ、山崎に移ります。

1925年、竹鶴政孝が原酒の出来をイネス教授に見てもらうための渡英の際、リタもスコットランドに帰省。人生で二度帰省するうちの一度目の帰省になります。

1929年、原酒の熟成はいまいちな状態ながら、日本初の本格ウイスキー、「白札サントリー」が販売開始。売れ行きの塩梅は決してよろしくなく、この時期のリタは心労もあったことでしょう。

そうした心労もあってか、1930年、房子を養女として引き取りました。のちにリマと改名します。竹鶴夫妻をモデルにした小説『望郷』では、竹鶴政孝はリタとウイスキー、2つの対象に命をかけている。同じく、リタも竹鶴政孝ともう一つ、命をかける対象があって良いのではないか、といったやりとりがあったと演出されています。

1931年には、リタはリマと鳥井吉太郎を連れてスコットランドに帰省。実家の家族と幸せな時間を過ごすことができたそうです。リタにとってはこれが最後の帰省になりました。

横浜、鎌倉での生活

ウイスキーの売上は徐々に伸び、後継者として目されていた鳥井吉太郎の成長もあって、竹鶴政孝は山崎工場だけでなく、横浜のビール工場長を兼務することになりました。

当然、リタも横浜に移り住みます。ただし、工場地帯で空気が良くなかったために体調を崩し、鎌倉に家を持つことになりました。

竹鶴政孝が作るビールは苦戦しました。オラガビールという銘柄でしたが、廉価戦略がうまくはまらず、撤退を決めます。

このとき、鳥井がビール工場を売るつもりであったにも関わらず拡張の指示が出ていたことについて、竹鶴政孝は鳥井と反目。独立を決意します。

余市での生活

アップルワインの外観。販売開始当時とほぼ変わらないボトルデザイン。
アップルワインの外観。販売開始当時とほぼ変わらないボトルデザイン。アップルワインやカルヴァドス、リンゴゼリーなどはリタの発案であったという説もありますが、定かではありません。

余市に大日本果汁設立。この時、帝塚山時代の、リタの家庭教師職の顧客であった芝川、加賀が資金を援助しました。

リタは、リマとともに余市に引っ越します。「食事は作りたての温かいうちに食べるもの」を信条としたリタは毎日、竹鶴政孝に作りたての弁当を送り届けたそうです。

当面の経営のあてにしたリンゴジュースは、高品質ゆえの天然成分ペクチンによる濁りの問題やラベルの腐敗、輸送コストの問題などで、なかなか売れません。最初の二年間は大幅な経営赤字になりました。

リタも、竹鶴家の食事を作るだけではなく、りんご洗い、ビン洗い、働く人への料理などして働いたそうです。

1939年の第2次世界大戦の勃発により、陸海軍からの国産ウイスキーの需要が増え、1940年から売りだされたニッカの初代ウイスキー、Nikka Rare Oldに始まるウイスキー販売も順調になりました。さらに余市蒸溜所が軍の指定工場となることで、経営も安定。

しかし経営の順調さに反して、欧米諸国と戦争することで、スコットランド人として生まれたリタにとっては、特高警察からの尾行や監視などで苦しい時代が続きます。

一度だけ余市の上空を敵国の戦闘機が来ることがありました。このとき工場が燃やされなかったのは、ウイスキー工場の存在の確認が目的であったためと、欧米を祖国とするリタが存在していたことが背景にあったそうです。

終戦、逗子での療養と死

1945年、終戦を迎えます。東京では未だイミテーションウイスキーが跋扈していました。品質を重視したために、なかなか経営が苦しい時期が続きます。

1951年、竹鶴政孝とリタの養子にあたる竹鶴威が、北海道の名家の娘、歌子と結婚します。竹鶴威は、「神経質なところがあるリタおふくろに対して、おおらかな気質の歌子は良いバランスだったように思う」とある書籍で述懐しています。

余市蒸溜所内に移設された竹鶴家。移設されたのは3分の1らしい。
余市蒸溜所内に移設された竹鶴家。移設されたのは3分の1らしい。

1953年、孫にあたる竹鶴孝太郎が生まれました。リタが最も幸せだった時期かもしれません。戦争を経て関係がうまく築けなくなった養女のリマは、看護師の学校に通うために北海道を離れ、以後リタの逝去の直前まで関係は改善されなかったそうですが、そんな失意の中の明るいニュースで、リタも大変喜んだことでしょう。現存するリタの写真の多くでも、自然な笑顔が多く見られる時期です。

実施に恵まれなかったリタは、それまでの自己認識は「竹鶴政孝の妻」であったと思うのですが、竹鶴威の子の誕生によって、最初から竹鶴家の祖母になることができました。おそらくこのとき、リタは本当に名実ともに日本に溶け込んだことを実感したのではないでしょうか。

孝太郎氏の述懐では、リタは、「コ」にイントネーションのある特徴的な発生で、「コォータロー」と呼んでいたそうです。当時は、TwinkleとTinyという犬を飼っており、孝太郎も犬もいうことを聞かないときは「Go to Bed」と最後通告を言い放ったと言われています。

1955年、体調を崩したリタは、寒さの厳しい余市での生活に限界を感じ、竹鶴政孝のはからいで逗子の家での生活を開始します。

1956年、母のロビーナ・カウンが逝去。このとき体調を崩していたリタは死に目にあうことができませんでした。この時、結核のため、札幌の天使病院、小樽の小樽病院、退院は翌年になりました。

1958年は鎌倉の自宅で大部分を過ごしたリタ。家族と離れ離れの時代、辛かったと思います。

1959年、竹鶴政孝との仲をとりもった末の妹ルーシーが来日し、鎌倉の自宅を訪れます。姉妹は28年ぶりの再会となりました。リタは英語がうまく話せなくなった、と笑いながらこぼしていたそうです。この年は、余市で家族とともにクリスマスと信念を過ごすことができ、おそらく人生最後の幸せな体験だっと思います。

1961年、リタは急逝。最愛の妻をなくした竹鶴政孝は「おばあちゃんが死んじゃった」と子供のように泣き叫び、ショックのあまり火葬場にも顔を出せなかったそうです。墓ができるまで、リタの骨を納めた香炉を寝食の際に常にともにしたそうです。

墓は余市蒸溜所が見下ろせる美園町の丘に墓が立てられ、この時点で竹鶴政孝の名が彫られており、「わしが死んだら日付を入れるだけでいいから楽だぞ」と竹鶴威に話していたと言われています。その墓には「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU」と刻まれています。

リタの死後、最愛の妻への感謝の気持ちをこめ、最高のウイスキーを目指し、竹鶴政孝と竹鶴威のブレンダー親子によって作られたのが、ニッカウヰスキーが誇るブレンデッド・ウイスキーの傑作、スーパーニッカです。

リタと竹鶴政孝が刻んだ歴史を思いおこしながら、スーパーニッカをいただくのも一興かもしれません。

美園の丘にある竹鶴政孝とリタの墓
美園の丘にある竹鶴政孝とリタの墓

数年のうちに余市蒸溜所の近くの美園の丘で、リタと竹鶴政孝のお墓参りをしたいと思います。

リタにまつわるエピソード

  • リタの葬儀が行われた余市教会との縁で、リタの母親とリタ自身の遺産の一部を使って余市保育園の建て替えが行われた。リタ幼稚園として余市町に現存している。またリタ幼稚園の向かいの道路はリタロードとして花壇などが整備されている。
  • 竹鶴と結婚してスコットランドを離れて以来、ひとつ下の妹のエラとは絶縁状態にあったが、最晩年にエラからハンカチが送られ、実質的に仲直りしている。
  • 初めて日本に来て水田を見た時、何の作物かわからなかった。竹鶴政孝に聞いて、「米のなる木なのね」とこぼした。竹鶴政孝は非常に印象的だったと述懐している。
  • リタは料理が得意で、スコッチブロスやキッパーズといったスコットランド料理のほか、日本料理も作っていた。イカの塩辛などは、イカの繊維に逆らうように切って、食感を良くするなど、工夫を凝らしていた。ただし米を炊くのは得意ではなかったようで、焦がした米をかまびつから取り出して、そこらに捨てることもしばしばあったらしい。ただ、パンはパンくずまで無駄にしなかった。
  • リタが漬けた梅干しは現存しており、余市にある。死後10年ほど経って、息子の竹鶴威によって発見された。
  • リタと竹鶴政孝の人生は、数多くのフィクション作品のモデルになっている。リタを中心とした話は、森瑤子の恋愛小説『望郷』、早瀬利之『リタの鐘がなる』などがある。ノンフィクションでは、オリーブチェックランド『マッサンとリタ』など。
  • リタのカウン家のタータン柄はMACDONALD OF CLANRANALDというもので、孫の竹鶴孝太郎氏はその柄で作ったバッグやストールをお持ちです。この柄の記事はLOCHCARRON社が作成したとのことです。

こうした魅力的なリタの人生を思うと、敬意と思慕の念を伝えずに要られません。数年のうちに余市蒸溜所美園の丘で、リタと竹鶴政孝のお墓参りをしたいと思います。(追記:2016年9月23日にお墓参りしてきました。)

 

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