岩井喜一郎設計のポットスチル第一号と第二号。ストレートヘッド型、下向きラインアームでヘヴィな原酒を作った。

岩井喜一郎(いわいきいちろう) – 【マルスの親】

岩井喜一郎(いわいきいちろう)とは

岩井喜一郎(いわいきいちろう)は、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史を語る上で外せない重要人物。竹鶴政孝摂津酒造に導く縁をむすび、竹鶴政孝をスコットランドに送り出し、竹鶴政孝の記した竹鶴ノートを元に蒸溜所を設計した。

岩井喜一郎(いわいきいちろう)の来歴概要

岩井喜一郎設計のポットスチル第一号と第二号。ストレートヘッド型、下向きラインアームでヘヴィな原酒を作った。
岩井喜一郎設計のポットスチル第一号と第二号。ストレートヘッド型、下向きラインアームでヘヴィな原酒を作った。

岩井喜一郎は、大阪高等工業学校の醸造学科の一期生として卒業しました。これは同じく大阪高等学校醸造学科15期生の竹鶴政孝の先輩にあたります。

1909年(明治42)に摂津酒造に入り、アルコール製造の新技術などを導入し、摂津酒造の経営を助けます。

岩井喜一郎は阿部喜兵衛(二代目)に大変重用され、工場の設計はもちろん、阿部喜兵衛の帝塚山邸宅の設計まで行ったと言われています。また摂津酒造を継ぎ三代目阿部喜兵衛となった人材を連れてきたのも岩井喜一郎であるそうです。(ウイスキーワールド2014年10月号、4代目阿部喜兵衛へのインタビューより)

1916年、竹鶴政孝が、醸造学科の先輩にあたる岩井喜一郎を頼り、摂津酒造の門戸を叩きます。なんとこのとき、岩井喜一郎と竹鶴政孝は一切面識はなく、竹鶴政孝は名簿をもとに一方的に岩井喜一郎を頼ってきたと言われています。

当時、岩井喜一郎は蒸溜酒業界の大ボスであったとウイスキーワールド(同上)にあるので、竹鶴政孝はその名声を頼ってきたのかもしれません。

摂津酒造の阿部喜兵衛(二代目)社長と岩井喜一郎は、「洋酒を学びたい」という信念にほだされ、突然の来訪者である竹鶴政孝を受けいれます。

模造(イミテーション)の洋酒や、寿屋(現サントリー)社の赤玉ポートワインの製造を任せるなかで竹鶴政孝の才能を見抜き、1918年に、阿部喜兵衛とともに、竹鶴政孝をスコットランドに送り出すことを決めます。

現在、赤玉スイートワインとして販売されている赤玉ポートワイン。
現在、赤玉スイートワインとして販売されている赤玉ポートワイン。

この阿部喜兵衛の英断は、「摂津酒造を竹鶴政孝に継がせ、自分の娘婿にしたい」という意図があったのでは、という説があります。じっさい、ドラマ「マッサン」は、この説に基づいたストーリー構成になっていました。ところが、ウイスキーワールド(同上)の記事によると、阿部喜兵衛が継がせたかった本命の人材だったとも言われていますから、もしかしたら岩井喜一郎が三代目阿部喜兵衛となっていたかもしれません。

1937年、摂津酒造の常務取締役を辞任。

その8年後の1945年、ちょうど終戦の年、鹿児島県の焼酎メーカーである本坊酒造に顧問として招聘。1960年、本格ウイスキー製造のための蒸溜所の設計をまかされ、山梨県石和にモルトウイスキー製造工場を建設しました。

その時に製造された石和工場は、1920年に竹鶴政孝が残した竹鶴ノートをもとに作られたので、スコットランド直系の蒸溜所でした。

竹鶴ノートのレプリカでは垂涎ものの貴重な資料が多数。
竹鶴ノートのレプリカでは垂涎ものの貴重な資料が多数。

信州マルス蒸溜所に現存するストレートヘッド、ラインアーム下向きのヘヴィな原酒を生むポットスチルは、岩井喜一郎の設計です。(なお信州マルス蒸溜所は、現在は新しいポットスチルが完成しており、岩井喜一郎が設計したポットスチルは展示されている状態です。)

岩井喜一郎は1966年に逝去。その死から三年後の1969年(要確認)に、ウイスキーの販売不振のため山梨県石和の工場は閉鎖されます。

ただし1981年、鹿児島県の工場で蒸溜が再開され、その時に今に残るブランド、マルスウイスキーが生まれました。岩井喜一郎の名は、同社のプレミアム・ブレンデッド・ウイスキー「岩井トラディション」シリーズとして今なお受け継がれています。

清潔で広いテイスティングエリア。タイミングがあえば、日曜でもゆっくりスタッフさんとお話できる。
清潔で広い、信州マルス蒸溜所のテイスティングエリア。タイミングがあえば、日曜でもゆっくりスタッフさんとお話できる。ここなら岩井トラディションを試飲できる。

(「岩井トラディション」シリーズは限定生産品のため、なかなか手に入りませんが、信州マルス蒸溜所まで出向けば、ほぼ確実に試飲できます。)

また現在、岩井喜一郎が顧問を務めた本坊酒造の蒸溜所は、長野の信州マルス蒸溜所と鹿児島の津貫(つぬき)工場があり(記事執筆時点では建設中)、脈々と歴史を紡いでいます。

岩井喜一郎は、竹鶴政孝を摂津酒造に入れる縁、スコットランドへの派遣、竹鶴ノートをもとにした本格ウイスキー蒸溜所の設計と、ジャパニーズウイスキーの歴史に多大な影響を与えた偉人です。

この人がいなければ、竹鶴政孝は摂津酒造に来なかったでしょうし、マルスウイスキーはもちろん、サントリー山崎蒸溜所ニッカ余市蒸溜所も誕生していなかったかもしれません。

日本のウイスキーを口にする際には、岩井喜一郎の偉大さに思いを馳せてみると、また違った味わいが楽しめるかもしれません。

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