芝川又四郎(しばかわまたしろう)とは
芝川又四郎(しばかわまたしろう)※敬称略は、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史を語る上で外せない重要人物。竹鶴政孝を支援しつづけた。
芝川又四郎は、帝塚山時代の竹鶴政孝の家主として縁が生まれました。
帝塚山時代の家は、スコットランド留学から帰ってくる前に摂津酒造の阿部喜兵衛が手配したものですから、芝川又四郎と阿部喜兵衛も知己の間柄だったのかもしれませんね。
竹鶴政孝とは、摂津酒造時代、寿屋時代を通じ、友人関係は続きます。またリタを娘の英語の家庭教師として迎え入れたことも縁を深めるきっかけになったことでしょう。
竹鶴政孝が寿屋勤務を終えて独立を決意したとき、協力な後ろ盾になったのが芝川又四郎です。
いまも大阪に残る質実剛健なビル、芝川ビル。ニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社が設立式を行ったのがこのビルでした。
いま、芝川ビルの1階にはThe Court (ザ・コート)という、ニッカウヰスキー製品を中心としたラインナップを展開しているパブがあり、今日まで続く縁の深さが感じられます。
大日本果汁株式会社設立当初は、数多くの株主がありましたが、大株主といえるのは実業家の加賀正太郎、華族の柳沢保恵、竹鶴政孝、そして芝川又四郎でした。
竹鶴政孝がさっそく余市工場で経営をはじめたものの、リンゴジュースは売れない、輸送中に成分が沈殿して騒ぎになると、経営赤字は続くばかり。
加賀正太郎は「回収にも輸送費がかかるのだから、海峡にでも捨ててしまえ」とまでいい放つ始末。
竹鶴政孝はこうした状況で、「回収したリンゴジュースは醗酵させてアップルワインにする。それも売れなければ、ポットスチルを使ってカルヴァドス(リンゴのブランデー)を作る。せっかくポットスチルを使うのだからウイスキーも仕込む」と言い出します。
加賀正太郎や芝川又四郎が設立支援したのは、「寿屋の鳥井さんへの恩もある。ウイスキーは作らない。あくまで果汁の製造販売の会社である」と聞いてのこと。
ついに本性をあらわした、やはりウイスキーを作るつもりであったのだ、と加賀正太郎は憤慨したと、芝川又四郎の自叙伝にて伝えられています。
一方で、たんに果汁会社を作るだけだとしたら、いくら火災保険費用が安いといっても、あの質実剛健な石造りの工場はいくらなんでもオーバースペックなのではないでしょうか。
やはり、加賀正太郎も芝川又四郎も、大日本果汁株式会社がウイスキー製造を始めることは時間の問題だと思っていたと思います。もっとも、その時期が想定よりずっと早かったのかもしれません。
さて、そうした苦難のみちのりもありましたが、リンゴジュースが病院に仕入れられるようになったり、国指定工場となって安定的にウイスキーを仕込めるようになったり、徐々に経営は安定していきました。
余市蒸溜所に行っては金子の入った小袋を従業員に渡して「旦那様」(ご主人様とする説も)と呼ばせ、ことあるごとに竹鶴政孝を叱りつけた加賀正太郎という気難しい大株主がいる一方で、竹鶴政孝がなんとか事業を続けられたのは、竹鶴政孝の庇護者としての立ち回りを続けた芝川又四郎の見えない活躍があったことでしょう。
ところが1954年、ニッカウヰスキー(当時はすでに商号が変わっていた)の最大株主であった加賀正太郎の死期におよび、芝川又四郎と加賀正太郎は株をアサヒビールに売却しました。これによってニッカウヰスキーはアサヒビール傘下の企業となります。
この当時のアサヒビールの社長は「山為硝子」時代から竹鶴政孝と縁のあった山本爲三郎であり、ニッカウヰスキーの製造には一切口を出さなかったと言われており、非常に友好的な買収でありました。
以後、ニッカウヰスキーは、アサヒビールから出向した辣腕の営業マン、彌谷醇平の活躍や、山本爲三郎の金銭的支援によるカフェ式蒸溜機の設営による「ブラックニッカ」ブランドの確立によって、ニッカウヰスキーは北海道のいち洋酒業者から、サントリーが意識するほどの日本のウイスキー会社として成長したのです。
1918年に竹鶴政孝が神戸港からスコットランドの留学に出た際には、摂津酒造の阿部喜兵衛は当然として、鳥井信治郎、そして山本爲三郎もいました。当時の洋酒製造業界の雄、現代の洋酒業界の巨人たちがいたのです。
あの神戸港から36年の時を経て、山本爲三郎と竹鶴政孝の縁を取り持ったのは、推測の域を出ませんが、これもやはり芝川又四郎ではなかったかと思うのです。
だとすれば、いまのニッカウヰスキーを作ったのは、竹鶴政孝の活躍はもとより、その庇護者、後ろ盾として最高度に支援しつづけた芝川又四郎の存在によるものだったのかもしれません。
ニッカウヰスキーをお飲みになるさいは、ぜひ芝川又四郎という偉人がいたことを思い出してほしいのであります。