摂津酒造とは
摂津酒造とは、大阪府大阪市住吉区帝塚山東に存在した洋酒メーカー。ジャパニーズウイスキーの歴史において非常に重要な役割を担う企業です。NHKドラマ「マッサン」の住吉酒造のモデルになったことでも知られています。
摂津酒造のジャパニーズ・ウイスキー史との関わりをざっくり列挙するだけでも、
- 同社の社長である阿部喜兵衛が竹鶴政孝をスコットランドに留学させた
- 同社の常務である岩井喜一郎が阿部喜兵衛と竹鶴政孝の縁をつなぎ、のちに本坊酒造にて竹鶴ノートを参考にした独自のジャパニーズ・ウイスキーを作った
- サントリー(寿屋)創業者である鳥井信治郎から赤玉ポートワインの製造を依託されており、竹鶴政孝の寿屋入社のきっかけを作った
- アサヒビール会長になりのちにニッカウヰスキーを吸収、さらなる成長のきっかけを作った山本爲三郎との取引関係があった
- 大日本果汁株式会社設立の際に出資した帝塚山周辺の有志との人間関係をつくった
といった具合で枚挙にいとまがなく、とにかくジャパニーズ・ウイスキーの歴史に深く根ざしているのです。ある種、「ジャパニーズ・ウイスキーのゆりかご」であったといっても過言ではないでしょう。
摂津酒造の歴史
竹鶴政孝が摂津酒造の門を叩いたのは1916年の3月。この記事を書いているちょうど100年前にあたります。
大阪高工醸造科を卒業した竹鶴政孝は、実家の酒の仕込みが忙しくなるまで半年の猶予があることをきっかけに、洋酒メーカーとして当時名をはせていた摂津酒造をたずねました。
アポ無しで突如おしかけたのですが、何の目算もなかったわけではなく、おなじ大阪高工醸造科の先輩(一期生)である岩井喜一郎の存在を頼ったのでした。
この岩井喜一郎という人物は、当時一般的だったイルゲス式連続式蒸溜機にフーゼルオイルセパレーターをとりつけ、高品質なエタノールを製造することに成功しました。
(この装置は岩井式連続式蒸溜機と呼ばれていますが、おそらく水を添加してフーゼルオイルを凝固化して取り除く機能をもつアロスパス式連続式蒸溜機に類するものだったのではないでしょうか。)
竹鶴政孝が摂津酒造の門をたたいたこの時代は、不平等条約が改正されアルコール輸入の関税が高くなり、さらに戦争によってアルコール製造の需要が急激に伸びており、国産のアルコールメーカーは経営上の追い風が吹いていました。
そうしたなか、新しい連続式蒸溜機をつくることで摂津酒造をさらなる一大企業に押し上げるきっかけをつくったのは岩井喜一郎だったのです。
岩井喜一郎は後に、竹鶴政孝がスコットランドで留学した記録をまとめた竹鶴ノートを参考に、本坊酒造にて独自のジャパニーズウイスキー工場を造ります。
岩井喜一郎が作った蒸溜所は、信州へ移転後、マルスウイスキーというブランド名で製造販売を続けており、信州マルス蒸溜所では岩井喜一郎が設計したポットスチルがいまでも屋外展示されています。
さて話は戻り、そうした岩井喜一郎を突然たずねた竹鶴政孝青年の熱い思いにほだされた摂津酒造社長の阿部喜兵衛は、特別に就労を認めます。
竹鶴政孝青年は、ここ摂津酒造で熱心かつ丁寧な仕事をしました。外に雪がふるなか、工場内の設備の熱気を頼りに工場に泊まることもあったそうです。
この当時、洋酒といえば輸入したワインに糖類などの混ぜ者をしたものが一般的で、殺菌処理に失敗すれば瓶内発酵により瓶が爆発することもしばしばでした。
そんな中、鳥井信治郎の寿屋から委託され竹鶴政孝青年が製造を担当していた赤玉ポートワインは爆発することなく、鳥井信治郎と阿部喜兵衛からの信頼を得ることができました。これがのちに竹鶴政孝の寿屋入社、山崎蒸溜所の設立につながります。
さて、先見の明があった阿部喜兵衛は、「そのうち、イミテーションウイスキーではなく本物のウイスキーが求められる時代が来る」と時代を読み、才気あふれる竹鶴政孝青年をスコットランドに派遣することに決めます。竹鶴政孝青年が突然に摂津酒造の門を叩いてから2年後、1918年のことでした。
日本酒の酒蔵のあととりとして期待していただけに、広島は竹原にある竹鶴政孝の実家は大騒ぎ。そんななか、摂津酒造の社長である阿部喜兵衛は広島まで足を運び「日本のため、本人のため」と竹鶴政孝の両親を説得しました。
竹鶴政孝青年をスコットランドに送り出したのは神戸港。そこには当然ながら阿部喜兵衛のほか、鳥井信治郎、のちにアサヒビール株式会社の会長としてニッカウヰスキーを友好的に買収する、山為硝子の山本爲三郎も港で見送ったといわれています。ジャパニーズ・ウイスキーの歴史におけるオールスターです。
さて、そんな出来事があった1918年から2年間、1920年まで、竹鶴政孝青年が摂津酒造をスポンサーとしてスコットランドでウイスキーを学ぶわけですが、摂津酒造の社長である阿部喜兵衛は公私ともに竹鶴政孝のサポートを続けました。
スコットランドから妻を携えて戻るという手紙が日本に届いたとき、竹鶴政孝の実家は大騒ぎ。そんななか、「阿部喜兵衛さんが見て認められるなら…」ということで、なんと阿部喜兵衛は身内代表として留学中のスコットランドに赴き、後に竹鶴政孝の妻になるリタ(ジェシー・ロベルタ・カウン)を見定めに向かったのです。その洋行費も、おそらく摂津酒造の稼ぎから出てきたものでしょう。
この洋行のさい、阿部喜兵衛は一枚の絵画を買い、結婚の祝いとして竹鶴夫妻にプレゼントしました。その絵はいまでも余市蒸溜所に残っています。摂津酒造の縁は今も余市に息づいているのです。
さらに阿部喜兵衛は、竹鶴夫妻のための家まで手配します。摂津酒造からほど近く、歩いて10分ほどの高級住宅街、帝塚山に宿を借りました。リタのために、当時は非常に珍しい洋式トイレを設置したと言われています。
阿部喜兵衛の手配によって帝塚山に宿を構えた竹鶴夫妻。これが間接的に、大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)の出資者となる芝川又四郎、柳沢保恵、加賀正太郎らとの縁をつなぐことになります。
それぞれ、この帝塚山の住宅の宿主であったり、リタが彼らの子息に英語を教えていたり、といった縁で、大日本果汁株式会社の出資者になったのですから、ここでもやはり、摂津酒造がジャパニーズ・ウイスキーの歴史に深く関与しているのです。
ただしこの当時、摂津酒造は非常な経営難にあり、とても本格ウイスキー製造に着手できる状態ではありませんでした。竹鶴政孝は本格ウイスキーを作るという夢を実現できない失意のなか、帰国から2年後の1922年に摂津酒造を辞します。
竹鶴政孝は鳥井信治郎に見初められ山崎蒸溜所を造り、後にニッカウヰスキーを設立して念願の本格モルトウイスキーの製造に成功します。その後、阿部喜兵衛へのせめてものお礼として、モルトウイスキーの貴重な原酒が詰まった樽を摂津酒造にプレゼントしようとしたところ、受け入れてもらえなかったと回想しています。
後年、私が北海道余市でウイスキーづくりを始め、最初に原酒ができたとき、せめてのご恩返しと思って、摂津酒造で、もしウイスキーをおつくりになるのでしたら、この原酒をお使い下さいと、いの一番に申し入れたが実現はしなかった。
NHK出版『ウイスキーと私』より
ところで、私は摂津をやめたとはいえ、非常に恩義を感じていたので、いつかはご恩返しをしたいと思っていた。そこで後年、独立して待望の原酒をつくりあげたとき、北海道からわざわざ大阪の摂津酒造までそれを持っていった。ニッカウヰスキー発売以前のことである。
摂津では、以前としてイミテーション・ウイスキーをつくっていた。私は、「いろいろご恩になったから、私のつくった原酒をもって参りました。どうぞこれを摂津酒造のアルコールの中に入れてみてください。香りも違うし、絶対によくなります」と申し出た。ところが私の真意は理解されず、不幸にも問題にされなかった。これでついに、摂津とのつながりは、まったく切れてしまったのである。
ダイヤモンド社『ヒゲと勲章 ニッカウヰスキー社長 竹鶴政孝 「ウイスキー革命は俺がやる」 歴史をつくる人々』より
その後の摂津酒造は、1937年には岩井喜一郎も摂津酒造を辞し、1964年には当時の大手酒造会社と合併し、現在の宝ホールディングスとなっています。
宝ホールディングスとなってからは、スコットランドの蒸溜所トマーティンを買収し、シングルモルトは当然のこととして、アンティクァリーやBIG”T”、タリスマンといったブレンデッド・スコッチ・ウイスキーの製造にも力を入れています。
阿部喜兵衛の思い描いた形とは異なるものの、摂津酒造は合併による延命を経て、スコットランドの蒸溜所を買収するという形で、本物のスコッチウイスキーを日本で売るという夢が実現したといえるでしょう。
摂津酒造の工場は1973年に取り壊され、跡地は団地に生まれ変わってしまいましたが、取水口だけは団地の公園の中に残っており、それが2016年11月に有志の手によって大阪市の顕彰史跡として登録されました。
摂津酒造のまとめ
とにかく、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史においてとにかく重要な存在であった摂津酒造。大阪に行く機会があれば、是非足を運んでロマンに浸ってみてください!