竹鶴政孝(たけつるまさたか)とは
竹鶴政孝(たけつるまさたか)氏は、スコットランドの本格ウイスキーを日本に伝えた偉人。寿屋の社員として山崎蒸溜所を設立。大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)設立後は、余市蒸溜所、宮城峡蒸溜所にてウイスキーを製造。NHKの朝ドラ「マッサン」の主人公のモデルとしても有名です。
竹鶴政孝(たけつるまさたか)の来歴概要
※当記事では敬称を省略しております。「黒澤明」にさん付けしないことと同様に、誰もが認める偉人たればこその敬称略です。
竹鶴政孝は、広島県賀茂郡竹原町にて四男五女の三男として生まれる。実家の酒造事業を継ぐため、大阪高等工業学校の醸造学科を卒業。大阪の摂津酒造にてイミテーションウイスキーの製造などに務め、1919年にスコットランドにウイスキー留学を開始。
帰国後、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎に雇われ山崎蒸溜所を開設。独立後、北海道の余市に蒸溜所を作り、大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を立ち上げる。その後コフィースチルの導入、宮城峡蒸溜所の建設を行い、日本においてシングルモルト・ウイスキーからブレンデッド・ウイスキーまでを手掛けるニッカブランドを確立した。
卒業後、摂津酒造での勤務
洋酒に興味があった竹鶴政孝は、同じ醸造学科を出た岩井喜一郎の縁を頼り、イミテーション(模造)ウイスキーなどを作っていた大阪の摂津酒精醸造所(=摂津酒造)にて技師として働き始めます。
時は戦中、竹鶴政孝は兵役を覚悟していましたが、軍用品として貴重であったアルコール製造技師だったために徴兵を免れ、着々とイミテーションウイスキー製造の技術を上げていき、摂津酒造の社長である阿部喜兵衛(二代目)の信頼を勝ち取ります。
軍需によって事業が好調に進んでいた摂津酒造。阿部喜兵衛は、事業が好調なうちに、イミテーションではない本物のウイスキーを作る準備を進めるべく、本物のウイスキー製造を学ばせるために竹鶴政孝をスコットランドに留学に送り出します。
なお、アルコール製造会社であった摂津酒造は、主要取引先のひとつに赤玉ポートワインで財をなす寿屋がありました。竹鶴政孝がスコットランドに向かう船の港には、寿屋の主である鳥井信治郎、後にアサヒビール会長としてニッカを買収しニッカ躍進の契機を作る、山爲硝子の山本爲三郎も居たと言われています。
スコットランドへの留学
竹鶴政孝のスコットランド留学の旅は、忠海中学の先輩である高井の提案で、カリフォルニア経由での旅路となりました。サクラメントという地域で、高井の友人が経営するいちご園の見学と、カリフォルニアワイン製造を学ぶためです。
実家の酒造現場で「酒は心が作る」と言われて丁寧な仕事ぶりを想定していた竹鶴政孝は、ワイン製造が合理的に大量生産されている現場にて、その作りの雑さに辟易したと言われています。
一ヶ月のカリフォルニア滞在を経て、渡航のためにニューヨークにて渡航手続きを行いますが、一ヶ月たってもなかなか許可がおりません。ドイツ降伏のニュースが入り、ようやく渡英の許可がおります。この時には、大統領に「英国に渡れなくて困っている」と手紙を出したら許可が降りた、という逸話も存在しています。
渡英後、リヴァプールからエジンバラを経て、グラスゴー大学と、王立工科大学(のちのストラスクライド大学)に聴講生として入ることに成功します。
しかし高校(今で言う大学)と摂津酒造の現場で鍛えられている竹鶴政孝には講義の内容はあまりにも物足りなく、それを見かねたウィルソンという教授から、J・A・ネトルトンの『ウイスキー並びに酒精製造法(The Manufacture of Whisky and Plain Spilit)』という書籍を勧められます。
英語が達者といっても、ウイスキー製造の現場経験がないため、上述の書を読んでも頭に入りません。スペイサイドのエルギンにて、著者であるネトルトンを訪ねても、法外な授業料を求められて門前払いとなります。
ロングモーン・グレンリベット蒸溜所での実習
座学に限界を感じた竹鶴は、エルギンを拠点に実習させてもらえる蒸溜所を探し始めます。無給を条件に、蒸溜所にて働かせてもらえるように提案したところ、ロングモーン・グレンリベット蒸溜所にて一週間の実習の機会を得ることができました。
糖化から蒸溜までの一連の流れを学び、最後には誰もが嫌がるポットスティルの中の掃除を買って出て、可能なかぎりの情報を収集しました。
ちなみにこの時竹鶴政孝は、さる縁で、とある少年の柔術の先生として、後に妻になるリタ(ジェシー・ロベルタ・カウン)の実家に出向きます。どうやら、主人を亡くしたばかりだったため、用心棒として雇われたとの見方もあります。
竹鶴政孝本人は、主人の存命中にカウン家を訪ねたと述懐していますが、記録では日本からの船出の前にすでに亡くなっています。これは、寡婦の家に男性がひとり下宿することに対して社会的な見方がよろしくないことから、カウン家の顔を潰さないために「主人の存命中に挨拶をきちんと済ませていた」ことにしたかったのでしょう。
ボネース工場での実習
エルギンのロングモーン・グレンリベット蒸溜所での修行をへて、次はエディンバラの北、フォース河口に位置する、ジェームスカルダー社のボネース工場にて実習の許可がおります。
ボネース工場では、三週間かけて、当時すでに数が少なくなっていた古い型の連続式蒸溜機(つまりカフェスティル)によるグレーン・ウイスキーの製造を学びました。
この経験が、西宮工場(今は宮城峡蒸溜所にて稼働)のカフェスティル導入につながったことは言うまでもありません。
三週間の実習を終えたのち、リタと再度会い、非教会式の結婚を行います。
ヘーゼルバーン蒸溜所での実習
竹鶴政孝は、リタを伴い、キャンベルタウンに向かいます。いまは閉鎖してスプリングバンク蒸溜所の1銘柄に名を残すのみとなったヘーゼルバーン所蒸溜所での研修のためです。
当時、ヘーゼルバーン蒸溜所は健在で、その他に
を束ねるマッキー社によって、ブレンデッド・ウイスキーの有名銘柄であるホワイトホースを送り出していました。
竹鶴政孝は、ヘーゼルバーンでブレンド技術を学ぶことが主目的でした。
じっさい、ヘーゼルバーンのシングルモルトは単体ではとても飲めるものではない、ヘビーなモルト・ウイスキーが生産されていましたが、これがスペイサイドの原酒と混合すると、劇的においしくなるのです。
またヘーゼルバーン蒸溜所では、ハイランドの大麦ではなく、カナダ産の大麦を使っていることを知り、日本産の大麦でも十分にうまいウイスキーができるかも知れないと希望を持つことになります。
サントリー社員として
スコットランドでの留学を終え、二冊のノートに実習記録をしたためた竹鶴政孝は、妻リタとともに日本に帰国。
摂津酒造にて本格ウイスキーの製造開始を期待するも、ウイスキー計画は頓挫しており、渡航前と同様に引き続きイミテーションウイスキーを作ることに。無念ゆえ、竹鶴政孝は摂津酒造を退社し、中学の化学教師として働き始めます。
一方、赤玉ポートワインで財をなしていた寿屋の鳥井信治郎は、今が好機と本格ウイスキー製造を検討していました。スコットランドで有名なボーア博士という技師を呼ぼうと英国に連絡したところ、竹鶴政孝の名前が挙がり、破格の待遇で竹鶴政孝を寿屋に迎えることになります。
本格ウイスキーを作るための中身は竹鶴政孝に一任するという約束だったものの、蒸溜所は見学ありき、都市圏に近くなければいけないということで、関西で目星をつけて、水質や貯蔵環境が良い「山崎」の地に蒸溜所を置くことになります。
設計から製造まで、竹鶴政孝に一任。初留釜と再留釜は、大阪の工場に依頼。巨大な釜を淀川を遡上して運び、列車事故を防ぐために夜を待って東海道線をまたぐという、大変な輸送になりました。
ウイスキー事業は経営的には難儀なもので、初期投資から数年間はキャッシュにならないという問題児。しかもこの時は、まともにウイスキー市場があるかどうかわからないという致命的な問題もありました。
じじつ、1929年、ようやく白札サントリーが国産初のウイスキーとして出荷されますが、熟成年数が浅いこと、醸造技術が低かったこともあり、販売は芳しくありません。
「白札サントリー」は華々しい広告宣伝文句とは裏腹にうまく売れず、弟分の「赤札」のリリースをもってしても厳しい経営状況が続きました。
ウイスキー事業を守るためにビールで採算をあわせるという名目で、竹鶴政孝は神奈川のビール工場長を兼務することになります。
しかしこのビール販売も失速。寿屋は多額の利益を出してビール工場を売り抜けることに成功しますが、この際に鳥井信治郎が竹鶴政孝に十分な説明をしなかったという不信感から、以前より考えていた独立をリアリティをもって考えるようになります。
大日本果汁(のちのニッカ)の代表として
竹鶴政孝は知人から資金を集め、以前より目をつけていた北海道の余市にて、大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)理想的なウイスキー製造を開始します。
その知人とは、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵の三名で、大阪在住時代にリタを中心とした縁があった人々でした。リタが結んだ縁です。
余市蒸溜所
北海道の余市の工場は、余市蒸溜所として今も残ります。山崎蒸溜所の経験で、ウイスキーが販売できるようになるまでの三年間のキャッシュを持たせることの難しさを痛感していた竹鶴政孝は、ウイスキー事業が軌道に乗るまで、余市でよく採れるリンゴを使ってジュースやゼリーを作ることで経営を間に合わせる計画を持っていました。
無添加にこだわるがゆえの沈殿や瓶内発酵により、品質問題がつきまとい、決して万事はうまくいきませんでしたが、なんとか乗り切ります。ちなみにニッカでは今でも、ウイスキーだけでなく、りんごジュースやアップルワイン、カルヴァドスなどを作っています。
1940年、ついに余市初のウイスキーを発売。以後終戦までは、軍の監督工場として軍にウイスキーを納品するようになります。
終戦後
終戦後は、市場には未だイミテーションウイスキーが蔓延っていました。酔えりゃいい、という時代ゆえ、品質本意のニッカウヰスキー製品は高くて市場に受け入れられず、またも不遇の時代を迎えます。
ニッカが販売にあえぐ一方、他方ではウイスキー原酒を0~5%までしか加えない三級ウイスキーが市場を席巻します。竹鶴政孝は「三級ウイスキーはウイスキーと呼べない」とし、原酒の販売やりんごゼリーなどの販売で長く三級ウイスキー市場への参入を固辞したものの、経営的な理由により、遺憾ながらも三級ウイスキー市場に参入。なんとか乗り切ります。
三級ウイスキー市場への参入を社員に説明するさい、竹鶴政孝は壇上で男泣きしたと言われています。
カフェスティルと宮城峡
ようやく本物の高級ウイスキーが市場に受け入れられるようになり、経営が比較的安定するようになると、 兵庫県西宮にイーニアス・コフィーの旧式連続式蒸溜機、いわゆるカフェスティル(パテントスティル)を購入します。1963年のことです。
さらに1969年、宮城峡に新たなモルト蒸溜所を設立。「タイプの異なる複数の蒸溜所の原酒のヴァッティングが理想」と考えていた竹鶴政孝は、ポットスティルはあえて対照的なものにします。
上記の違いから、前者は濃厚でコクの有るモルト、後者は繊細でライトなモルトに仕上がります。
(なお1999年には、西宮工場のカフェスティルは宮城峡蒸溜所に移設されます。)
竹鶴政孝の逸話
宮城峡設立の1969年には、竹鶴政孝は勲三等瑞宝章を受章しています。これ以前に勲四等の打診があったが、もし受け取ると、今後、ウイスキー製造者全員が最高でも勲四等止まりになってしまうという理由で固辞したことがあるそうです。
勲三等瑞宝章受賞時には、胸像が作られました。今でも余市蒸溜所内に展示されています。
余市での竹鶴政孝
余市では、農家の売れないリンゴを買い取るなどして、当時の農家から非常に感謝されたと言われています。余市の民宿「あゆ見荘」の二代目主人の佐藤さん曰く、「私の父もそういう農家の一人だったのだろう」と述懐されています。
その「あゆ見荘」も、竹鶴政孝が命名したもので、揮毫した看板が今も残ります。
この「あゆ見荘」の隣には、時代を感じるホテル「水明閣」がありますが、こちらも竹鶴政孝の命名によるもの。
水明閣は、ニッカ社員の宴会や、要人の接待などにも用いられたそうです。館内には竹鶴威氏の写真も残されていました。
この2つの店の目前には余市川があり、竹鶴政孝はここに東屋を建て、接待に用いていたそうです。樽職人に釣りをさせ、「あゆ見荘」の主人に川沿いで鮎を塩焼きにさせ、釣れたて調理したての鮎とウイスキーを客に振る舞うのです。こんな贅沢な接待もなかなかないでしょう。
また竹鶴政孝はスポーツ好きとしても知られ、地域のスポーツ振興にも熱心でした。これも余市川沿いにある、余市町営運動公園は、竹鶴政孝が土地所有者を自転車で説得してまわり、設立を実現した設備です。
竹鶴政孝の住まいは余市の山田町にあり、邸宅は今は余市蒸溜所内に移設されています。「あゆ見荘」のご主人いわく、この近辺では白亜の宮殿と呼ばれていたそうです。
竹鶴政孝は余市の自宅ではハイニッカのボトル1本を毎日空けていました。
さすがに晩年はハーフボトルのデキャンタ一本に抑えたそうですが、それでも大変な酒量です。
数ある銘柄のなかで、なぜハイニッカなのかというと、「もっとも売れているウイスキーである」ということと、「二級ウイスキーであっても本物の原酒を使った本物のウイスキーである」という理由から、気取らずハイニッカクラスのウイスキーをあえて飲んでいたと言われています。
1970年にはニッカウヰスキーの代表取締役会長に就任。
1979年、85歳で死去。北海道余市にリタともに美園の丘に埋葬されます。
補足
当ページの執筆においては、
- 川又一英著『ヒゲのウヰスキー誕生す』
- 土屋守『竹鶴政孝とウイスキー』
- オリーブチェックランド『マッサンとリタ』
を大いに参考にさせていただきました。今後も新しい情報が入り次第更新予定です。