ニッカの初号銘柄。これを出荷したときの竹鶴とリタの心境はいかなるものだっただろう。

【随時更新】ウイスキー歴史年表

こちらのページでは、ウイスキーとその周辺環境に関する主要な事件を年表形式で記録しています。随時更新です。

西暦場所事件概要
B.C.47億年頃地球の誕生、化学的にエチルアルコールの存在が推定される。
B.C.500万年頃原人の誕生(推定)
B.C.7000年頃メソポタミアメソポタミア地方で農耕始まる
B.C.4000年頃ヨーロッパヨーロッパ各地に農耕文化が広がる
B.C.3000年頃メソポタミア最古のビール作りの板碑(モニュマン・ブルー)
縁辺が二重になった土器の発見。
500頃スコットランドゲール族の一派スコット族が北アイルランドからアーガイル地方に渡来、ダナッドに拠点を築く。ダルリアダ王国、アーガイル地方に建国。
1172アイルランド-英国アイリッシュ・ウイスキーの最古の記録
1263スコットランドラーグスの戦い。スコットランド王アレクサンダー3世が、ヴァイキング軍のホーコン4世に勝利、「アザミの伝説」誕生。
1297スコットランドスターリング・ブリッジの戦い。ウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍がイングランド軍を打ち破る。
1307スコットランド「Hammer of the Scots」のエドワード1世が死去。
1314スコットランドバノックバーンの戦い。ロバート・ザ・ブルース王がイングランドのエドワード2世に勝利。
1494スコットランドスコッチ・ウイスキーの最古の公式記録
1603スコットランドスコットランド国王ジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世として即位。同君連合が成立。
1644スコットランドスコットランド議会、アクアヴィテに初課税。
1689スコットランドカローデンのダンカン・フォーブスが免税特権を持つフェリントッシュ蒸溜所を建設。
1707スコットランドスコットランドが英国に統合される
1746スコットランドカローデンムーアの戦いでジャコバイト軍、イングランド軍に敗北。キルト、バグパイプの禁止。ハイランドで密造が盛んに。
1759スコットランドエアシャーのアロウェイにロバート・バーンズが生誕。
1775USアメリカ独立戦争(~1783)、スコッチ、アイリッシュが活躍。
1781スコットランド自家製ウイスキーの蒸溜が禁止に
1824スコットランドザ・グレンリベット蒸溜所が政府公認第一蒸溜所に指定
1826スコットランドスコットランドのロバートスタインが連続式蒸溜機を考案
1831アイルランドアイルランドの元主税局監査主任イーニアス・コフィーが連続式蒸溜機(=カフェ式蒸溜器)を発明。14年間のパテント(特許)を取得
1837スコットランドヴィクトリア女王即位。以後、ロイヤルロッホナガー蒸溜所にワラントを提供。
1853スコットランドアンドリュー・アッシャー二世がブレンデッド・ウイスキーを発売開始
1854日本 – 米国日米和親条約
1868日本明治維新
1877スコットランドローランドのグレーンウイスキー業者6社が集いDCL社を結成。
同上欧州フィロキセラ禍
1894日本日清戦争開戦。同年竹鶴政孝が広島県の竹原市に出生。
1902日本日英同盟。ウイスキー輸入量増加。
1904日本日露戦争開戦。翌年ポーツマス条約で講和。
岩井喜一郎が宇治火薬製造所に入社。
1908日本岩井喜一郎が摂津酒造に入社。
1909日本岩井喜一郎が自身が設計したボーム式連続式蒸溜機を製造。これまで3回蒸溜して91~2%にしかならなかったアルコールが、このボーム式では1回の蒸溜で94%を製造できるようになった品質も高く、以後の摂津酒造の躍進のきっかけを作る。
1911日本関税自主権の回復。輸入アルコールが高くなったため、洋酒の製造の担い手が、小西儀助商店などの薬種問屋から、摂津酒造などの酒精製造会社に移るきっかけになる。
1914日本第一次世界大戦
1916日本竹鶴政孝が同学の先輩岩井喜一郎の縁をたどり、イミテーション洋酒の製造をしていた摂津酒造に入社。摂津酒造はこのころから焼酎製造を始める。
同年アイルランドダブリンのイースター蜂起。アイルランド独立戦争に発展し、アイリッシュ・ウイスキー産業が落ち込む主要因の一つに。
1918日本-スコットランド竹鶴政孝が摂津酒造の阿部喜兵衛社長の命を受け、スコットランドでウイスキー製造の留学を開始。ロングモーン・グレンリベット蒸溜所、グレーンウイスキーを製造していたボネース工場、キャンベルタウンヘーゼルバーン蒸溜所で実習を行う。
1920~33アメリカ禁酒法時代。カナディアン・ウイスキーが隆盛、一方でアイリッシュ・ウイスキーとキャンベルタウン・ウイスキーが主要な市場を失い衰退。
1922日本竹鶴政孝が摂津酒造を退社し桃山中学で化学教師の職に就く。
1923日本鳥井信治郎が竹鶴政孝を招き山崎蒸溜所の建設開始。翌年完成。
1929日本国産初のウイスキー「白札サントリー」の販売開始
1934日本竹鶴政孝が北海道・余市にて大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)を設立
1938日本大日本果汁株式会社がアップルワインの販売開始
1939日本第二次世界大戦
1940日本大日本果汁株式会社が初のウイスキー銘柄「レア・オールド(正式名称不明)」を発売
1945日本終戦
1946日本トリスウイスキー誕生
1950日本トリスバー誕生。ニッカポケット瓶(3級)をリリース。
1952日本大日本果汁株式会社が社名を「ニッカウヰスキー」に変更。本社を東京麻布に。
1954日本ニッカウヰスキーが朝日麦酒株式会社 (後のアサヒビール株式会社)の傘下に入る
1956日本「丸びんニッキー」、「ブラックニッカ」ブランドの誕生。洋酒天国の発刊。
1958日本アンクルトリス誕生
1960日本鹿児島の焼酎メーカー本坊酒造が、岩井喜一郎の設計で山梨県石和に蒸溜所を開設。
1961日本トリスを飲んでHawaiiへ行こう!キャンペーン
1962日本級別制度改定。特級(原酒混和率20%以上)、一級(同10%以上)、二級(同10%未満)の3分類に。
スーパーニッカ(初号)のリリース。
1963日本ニッカが兵庫県の西宮工場に旧式の連続式蒸溜機であるカフェ式蒸溜器を導入。
同年日本寿屋が社名をサントリーに変更
1965日本「新ブラックニッカ(一級)」の誕生。
1969日本ニッカ、宮城峡蒸溜所を開設
1971日本ウイスキーの貿易が完全自由化。
1972日本キリンビール株式会社(日本)、JEシーグラム社(米、当時)、シーバースブラザーズ社(英)3社合弁によりキリン・シーグラム株式会社設立
1973日本キリン・シーグラム株式会社が富士御殿場蒸溜所を完成。サントリーが山崎蒸溜所完成から50周年に白州蒸溜所を完成。
1979日本竹鶴政孝逝去。
1982日本ニッカウヰスキーがピュアモルト・レッドピュアモルト・ブラックをリリース。
1983日本ジャパニーズウイスキーの消費量がピークに。
1984日本酒税法改正。3級ウイスキーが大幅値上げになり消費低迷に要因に。高級銘柄は割安になるも、プレミアム感が薄れ市場が減衰。
1985日本本坊酒造、信州マルス蒸溜所を開設。
ニッカウヰスキー、ダブルマリッジとカスクストレングスに着目した画期的製品「フロム ザ バレル」をリリース。
1986日本ニッカウヰスキー、モルト含有量の割合をグレーンより増やした製品「ザ・ブレンド オブ ニッカ」をリリース。
1986頃スペイン-スコットランドスペインがECに加入。シェリーの輸出が樽でなくボトルで行われるようになったため、スコットランドにおけるシェリー樽の確保のコストが増加。
1989日本酒税法の大幅改正。級別法の廃止。
1990日本ニッカウヰスキー、カフェモルトの前身となる「オールモルト」をリリース。
1992日本本坊酒造、信州マルス蒸溜所の操業停止
同年日本-英国ニッカウヰスキーがハイランドの蒸溜所ベン・ネヴィスを買収。
1997日本ニッカウヰスキー、同社として初のノンピートタイプの製品、ブラックニッカクリアをリリース。
1999日本ニッカウヰスキーのカフェ式蒸溜器が、西宮工場から仙台工場(宮城峡蒸溜所)に移設される
2002日本キリン・シーグラム株式会社設立が、社名を「キリン ディスティラリー株式会社」と変更
(キリンビール株式会社の100%出資会社化)
2011日本本坊酒造の信州マルス蒸溜所が再稼働
2014日本MHKにて連続テレビ小説「マッサン」の放映開始。
同年日本-米国サントリー社がビーム社を買収。ビーム社はビーム・サントリー社となってホールディングスの子会社に。このとき、ジム・ビーム蒸溜所、アードモア蒸溜所などがサントリー傘下に入る。
同年日本竹鶴政孝の養子で、ニッカの相談役だった竹鶴威氏が逝去。
2016日本蒸溜所建設ラッシュ。ガイアフロー社の静岡蒸溜所、堅展実業社の厚岸蒸溜所、本坊酒造の津貫蒸溜所、笹の川酒造の安積蒸溜所(再稼働)が稼働開始。
2017日本サンシャインウイスキーで知られた、若鶴酒造の三郎丸蒸溜所が再稼働開始。
2018日本小正醸造の嘉之助蒸溜所、金龍の遊佐蒸溜所が稼働開始。
2019日本ベンチャーウイスキー社の秩父第2蒸溜所が完成。
2020日本木内酒造の八郷蒸溜所が稼働開始。